#17 月とサンダル


幼い頃住んでいた長屋には風呂がなかった。

風呂がないことは当たり前で、それを苦とも善しとも思ったことはない。



炭鉱町に住む皆同じで、そういうものだと思っていた。



町全体は数十軒ごとに地域が括られており

楓町、鴬町、山吹町、向日葵町など

今思えば町名はどれもやけに風情があった。



幼いわたしは本来の意味に先んじて

町のイメージでそれらの言葉を覚える。



山吹町には山の神さんが祀ってあり

向日葵町にはゆきちゃんが住んでいる。

鴬町は空き家が多く(そこは野良犬の棲処)

若葉町には母と仲良しの山田のばあちゃんちがある。

楓町の入り口には床屋があって・・と、こんな具合に。



そしてわたしの住む坂の上の地域は桂町。



当時、桂という美しい木の存在を知らなかったわたしは。

もとい、多分わたしと同年代の子たちは

「かつら」と聞けばイメージするのは、鬘(カツラ)一択であっただろう。



ドリフのカトちゃんが装着しているアレである。



折々の地域ごとのイベントでは町の名が拡声器を使って叫ばれ、つどわたしは

「ああ、もうっ」

と身の置き場のなさを感じていたことも覚えている。






さて、風呂である。



記憶が定かであれば、町全体で風呂屋は二軒あった。

楓町に一軒、弥生町に一軒。

もちろん無料で利用できる。



いずれも大きな大きな風呂である。

風呂釜をぐるりと優に50~60人は囲めたと思う。



風呂は石炭で沸かす。

なので毎日ボイラー室は怒ったような音をたて

風呂屋の裏からもくもくと煙を吐いていた。



わたしの母は一番風呂を好む人であった。

17時に開く風呂屋にあわせてある程度夕飯の仕度を済ますと

「風呂行くよー」

と、こんどは風呂かごの準備を始める。



かごは赤いプラスチック製で

洗面器、石鹸とシャンプー、バスタオル。

下着とパジャマがうまく収まるようになっている。



風呂へは、夏はお気に入りのサンダルを素足で履けいて行けるけれど

冬は寒いので靴下に靴を履かなきゃならない。

これが風呂あがりにはどことなく気持ちが悪かった。





ここに、赤いサンダルがある。

中がふわふわでスリッパみたいに爪先まで覆われている。

正面には動物のキャラクターが可愛く描かれ、素足で履いても温かい。



冬休みに妹とおそろいで母が買ってくれたものだ。



早く履きたい気持ちと、もったいなくて外にはまだ下ろしたくない気持ちの狭間で

潔く結論を出せぬまま、すでに一週間以上が経っていた。



結果、家の中で履いている。



足にはもうすっかり馴染んだ。

椅子に座ってこんなふうにクイクイと足首を動かしても脱げないコツもすでに掴んでいる。



クイクイ。

ほら。



但し妹とふたりして家の中をドタドタと歩くたび、母からは

「外で履きなさい」

と、怒られていたのだけれど。



「行くよー!」

母の声がせかす。



あ~どうしよう。



風呂上がりの靴下と靴の気持ち悪さをあらためて思い出す。

けれどそれもしばらくすれば慣れっこになるはずだ。

家でスリッパとして履く格好良さも今となっては捨てがたい。

汚れちゃうのは、やっぱり嫌だしなぁ。



あ、でも今日はゆきちゃんに会えるかもしれない。

そうしたら、このサンダル見せられるかも。



「はよせんね!」



あ~もうっ!

えいっ今日だ!



わたしは厚手の半纏を羽織り、履いていたサンダルのまま外へ降り立った。



「やっと下ろすとね」

母がぽんぽんと頭を撫でてくれた。





風呂屋に着くと番台にはいつものおばちゃんが座っている。

「一番よ~」

「お世話様~」

母との定番のやり取りを交わすと、おばちゃんがよっこらと降りてきた。



わたしと妹はサンダルを脱いで下駄箱の隅に並べて置く。

妹のは桃色だ。



「今日は寒かけんね~熱めに沸かしたとよ」

おばちゃんは板張りの脱衣所を音をたてて急ぎ足で抜け、

ガラガラガラと引き戸を開けて風呂場へ入って行った。



あ、湯揉みだ。



わたしは急いで服を脱ぎ、母が妹の服を脱がせているのを横目にペタペタとおばちゃんを追いかける。



おばちゃんはボイラー室につながるドアを開け、長い木の棒を取り出してきた。

棒の先には四角い板が付いている。

それを湯船に差し入れると、がっぽがっぽと掻き混ぜはじめた。



まだ誰もいない静かな風呂場に湯を揉む音だけが響き渡る。



がっぽがっぽ、ざばんざばん。

がっぽがっぽ、ざばんざばん。



「触ってみんね」

と言われ、そろそろと湯を触る。

「うん。…いいかんじ」



すると場所を変えて、また

がっぽがっぽ、ざばんざばん。



「どうね?」

「うん、よか」



わたしはおばちゃんについて回りながら湯加減をチェックしていく。



日によってはちょっと触るだけで

「熱っつ!」

となる時もあり、そうするとおばちゃんは大きな蛇口を両手でひねって勢いよく水を出す。



さらにその水を全体に行き渡らせるため勢いよく湯を揉み始めるので

そんな時は邪魔にならぬよう、さっと身を引くこともわたしは心得ていた。



一気にもくもくと湯気に覆われた風呂場に母と妹も入ってくる。

洗い場で頭や体を洗っているうちに続々と人も入って来た。



それにしてもおばちゃんたちの声というのはよく響く。

自然子供もいくら騒いだとて目くじらをたてられることもない。



一番風呂の静けさはほんの一瞬で、あっという間に賑やかな音が風呂場を満たした。






わたしはひと通り洗い終えるとそそくさと湯船に浸かった。



「ちーちゃん」

呼ばれた方を見るとゆきちゃんがいた。



「ゆきちゃん!」

「ちーちゃん、もうあがると?」

「うん。もう洗い終わったよ」

「わたし、これから」



ゆきちゃんはしっかり者で整った字を書く女の子だ。



「ちーちゃん、お風呂あがったらブランコで遊ばん?」



風呂屋の外にはブランコがある。

ブランコは、運動音痴のわたしがなぜか得意とする遊びだ。



「遊びたい!」

「じゃあ、急いで洗うけん待っとって」

「分かった!」



見ると母は洗い場で隣になった近所のおばちゃんと話し込んでいる。

こりゃまだまだ時間はたっぷりかかるだろう。

わたしはお湯からあがるとかけ湯をして風呂場をあとにした。



体を拭いて着替えているうちに、もうゆきちゃんがあがってきた。

「はやーい!」

わたしがビックリ顔をすると、ゆきちゃんはにっこりと笑う。

ショートカットの髪が黒々と濡れて、体からはぽっぽと湯気がたっている。



そして着替え終わり、下駄箱へ。

ゆきちゃんが靴を置いてしゃがみ、靴下を履いている横に

わたしはおもむろに赤いサンダルを置いた。



「うわっ!なーん?かわいかぁ!」



フフッ。

思った通りのゆきちゃんの反応にわたしは内心ほくそ笑む。



「冬休みに買ってもらったと」

「わあ、中がふかふかになっとる!」

「うん!裸足で履いてもぬくかよ」



わたしたちはひとしきりサンダルを囲んで話に花を咲かせた。



「じゃ、行こう!もう男子に取られとるかもしれん」



そうだった。

ブランコは二台のみ。

男子に先を越されれば諦めるしかないのだ。





外に出るとあたりは今にも暮れそうな薄暗さだった。

夏ならば同じ時間でもまだまだ明るいのに、と思う。



ブランコには人はおらず、ぽつんとそこにある。



「やったー!」

ゆきちゃんと一目散に駆け寄った。



ただ、学校のよりも錆びだらけで劣化しているのは明らかで、さすがに2人乗りはやめて横並びで漕ぐことにする。



いきおい握った持ち手の鎖の冷たさに、一瞬だけひるむ。



「ちーちゃん、サンダルで平気~?」

「平気、平気~」



だんだんと調子にのり、地面を蹴ってもっともっとと高く漕ぐ。



冷たい風があたって気持ちがいいのは最初だけで

濡れたままの髪の毛がみるみるとキンキンに冷えていった。



さらに薄闇に慣れた目に、遠くの木々が怪物のように黒く浮かび上がって見え

「ひょえ~!ひょえ~!」

と、わたしはふざけて悲鳴に似た声をあげた。



隣でゆきちゃんはたぶんにっこりと笑っているだろう。



なおこちゃんなら一緒に「ひょえ~!」って言ってくれるかもな、とちょっとだけ頭によぎった。






「帰るよー」

母たちが連れ立って風呂屋から出てきた。



ブランコは名残り惜しいけれど、すでに寒さは限界だ。

冬の風呂あがりにする遊びではなかった。



「じゃあねー」

「また明日ねー」



母が冷たくなったわたしの頭にバスタオルをほっかむりのようにして捲いてくれる。



かじかんだ手に息を吐くと、手のひらから錆びた臭いがした。

「うげー」

顔を上にそらすと、そこにまんまるの月がぷっかと浮かんでいる。




「お母さん、月!」

「ほんとだ。満月かねぇ」



妹の手を引きながら母が言う。



落っこちてきそうな大きな月がつよく白白と耀くので、わたしはすっかり目を奪われてしまった。



いつか本で読んだ月に住むうさぎのことを思い出す。



「うさぎ、おるかねぇ」

母に訊くと

「おる、おる」

と言う。



目を凝らして見ると、うさぎの影らしきものが見えなくもない気がする。



そしてはたと、気づく。



ここまでいくつか角を曲がったけれど、月はわたしについてきている。



ためしに走ってみる。

月もそそとついてくる。

急ブレーキをかける。

月もぴたと動かない。



「お母さん…」

「なに?」

「わたし、月に追いかけられよるみたい」

「あら」

「お母さんにはついてこん?」



このタイミングで、母はここぞとばかりに得意の法螺を吹いた。



「さ~あ、お母さんにはついてこんねぇ」



母には時々澄まして法螺を吹く、とぼけたところがあった。

熊本市内の電波塔を東京タワーだと言ったり

におい消しは鼻の穴に詰めるもんだと言ったり

迫真の死んだフリでは幾度騙されたことか。



「あらあ、そりゃちーちゃんは特別とよ。

お母さんにはお月さんが動いては見えんもんねぇ」



とくべつ。



悪くない。



わたしは夜空を見上げにんまりとする。

月は飽くことなく家まで従順についてきてくれた。



以来、冬の風呂の帰りは月と歩く道となった。






今、ふと、夜空を見上げてみる。

月は平たく地上を照らしている。



そういえば歳を経て、あの頃のようには月と親しく歩いていないことに思い当たる。



母の「ついてきてない」という言葉。

またとぼけたこと言って、と長年思ってきたけれど

あれはあながち法螺ではなかったのかもしれない。



月と歩く感覚は幼い時分特有のもので

味覚や嗅覚と同じように

歳を重ねるごとに変化するということか。



いずれにせよ、月をともなう冬の道は心つよくわたしの記憶に染みている。




さて、ちいさなわたしもまた、すりガラスの窓を細く開けて夜空を見上げている。



さっきまであんなについてきていた月が、

やけに見えづらいところで光っているので

「わたしはここだよ」

と呼んでみる。



けれど、もはやお役御免とばかりにこちらに近づいてくる気配はない。



「また明日ね」

わたしはそおっと窓を閉め、鍵をぐるぐるとかけた。






真っ暗な外玄関の三和土では、おろしたての赤いサンダルが土まみれとなってひっくり返っている。



考えなしに及んだブランコ遊びの代償である。



翌朝気づいたわたしが「うげーっ!」と驚き、嘆き悔やんだことは言うまでもない。











         text by haru   photo by sakura




















































































































こはる日和にとける

いつかの情景、いつかの想いを綴るエッセイ

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