#2 美しきは秋
秋にはひそかに親しみをもっている。
名前に「春」をもつわたしだけれど、
旧姓には「秋」をもつ。
子供のころは氏名にふたつ、季節を有していることが秘めたる自慢だった。
春ははじまりの季節で、変化を好まないわたしは実はすこし苦手。
菜の花やレンゲ草、雪柳の香りも大好きなのに、そこから呼び起こされる記憶にはどうしようもなく胸をしめつけられてしまう。
意味をもち過ぎた記憶は、残酷だ。
その点、秋はよい。
はじまりを告げる金木犀の香りは、小学校のブランコと結びつく。
友達と2人乗りして、「えーい。やー。とー。」と漕ぎまくったブランコ。
運動音痴のくせにブランコだけは得意だった。
「きゃー。吸い込まれるぅ」
と空に包まれるような感覚になってはしゃいだことを思い出す。
さらに、読書の秋。
おいしいものに目がないのと同じくらい本にも目がない。
書店や図書館で『秋の夜長に』、なんてフェアを目にすると、ウキウキがこぼれてついあれもこれもと手を出してしまう。
季節を問わず本は常に傍らにあるものなのに
秋になるといきおい、その加速度が増すのは夜が長いからか。
『ホリーガーデン』という一冊がある。
秋の本というわけではないけれど、秋に思い出す本だ。
学生の頃出会い、カバーがぼろぼろになるほど何度も読んだ。
江國との出会いの本。
色や、手触り、においが本から漂ってくる。
平らな紙の上にのった文章の世界の、なまの奥行きをはじめて感じた本だった。
著者の江國香織のあとがきが特に印象的だ。
『なぜだか昔から、余分なものが好きです』
と、それは始まる。
知りたいと思った人の名前や年齢や職業より
その人が朝なにを食べるのか、子供のころ理科と社会とどっちが得意だったか、喫茶店で紅茶とコーヒーはどっちをよく頼むか。
そんなことばかりに興味を持ってしまう、と。
そして、余分な時間ほど美しい時間はない。
これはその余分なことばかりでできている小説だ、と。
たしかに。
あんなに何度も読んだ本なのに、ストーリーとして順序だてて記憶に残ってはいない。
ただ。
イチョウ色の澄んだ空気にまじって焦げた煙のにおいを感じたとき。
通り過ぎた家から石油ストーブのにおいがつんともれてきたとき。
記憶の海で漂っていたこの本がひょっこりと顔を出す。
そして。
そうだ。秋は美しい。
と、はじめて気づいたかのようにしみじみと思いに耽るのだ。
思えば、ブランコの記憶。
金木犀の香りを嗅ぐと、なんの脈絡もなくベリーショートのモンチッチみたいな少女が現れる。
その子は足ではさんだ友達とともに、膝をぐいっぐいっと曲げ伸ばし、空に向かって高く漕ぐことだけに夢中だ。
意味はない。
わたしの中の、たぶん余分な、けれども美しい記憶。
金木犀の香りと共に数十年、ちいさな瓶におさめられている。
気づけばやはり。
美しきは、秋。
text by haru
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