#13 カセットテープ


その図書館は坂の上の見晴らしのよい場所にあった。



小学生のわたしにとってひとりでバスに揺られて行くそこは、

行動範囲のきわであり、町のはしっこ。

立派なお出掛けである。



バス停からのくねくねの坂道。

からからと鳴る落ち葉をよけながら

肩掛けバッグを左肩によいしょと掛け直して歩く。



おとなみたい。

内心、そう思っている。



バスを降りる時はお金をスムーズに入れることができたし。

(乗ってすぐから握りしめていた)

ステップも軽やかに降りられた。

(ほんとうは雨の日に滑ってから大の苦手)



それになんといっても、今日はひとり!



「あなた、ひとりでどこ行くの?」

「そこの図書館に」

「あらあ、偉いねぇ。どこから来たの?」

「緑が丘です」

「まあ、そんな遠くから!」



頭の中での会話が、たぶん、文字通り、

だだ洩れの子供であった。



心くすぐる質問をしてくれるインタビュアーは架空のおとな。

脳内で話しかけてくる。



それに対しわたしは、小声とはいえブツブツと実際に声に出して応じている。



思えば物心ついた頃からいい大人になるまで

そうやってひとり喋りを愉しむ、妙な癖がわたしにはあった。



会話は続いている。

「図書館には何しに?」

「自習室で本を読みます」

「読書家ねぇ。どんな本を読むの?」

「最近は『モモちゃんとアカネちゃん』のをぜんぶ読みました」

「あらあ、偉いねぇ」



そうだ。

ぜんぶ読んじゃったんだ。

と、悲しく思い出す。



モモちゃんシリーズの次は何を読もう。



今日はそれを決めなくちゃ。

もう一度、しっかりとバッグを掛け直して足早に図書館を目指した。



建物に入ると中はいっそう静かだ。

ここでは無論ひとり喋りは禁物である。



図書館の狭い入り口をぬけるとさらに空気が変わる。



黒々としたふかふかの土のような匂い。

天気雨のあとの匂いともすこし似ていて、わたしはすっぽりと安心してしまう。



ぱた、ぱた、と本を閉じる音。

しゅっ、と貸出カードを差す音。

とす、とす、と本を重ねる音。



においに音が吸い込まれていく。



深い森に迷いこんだような違和感で

耳が慣れるのにすこし時間がかかった。



ガラス戸で囲まれた児童書のコーナーには

モモちゃんシリーズが幾冊も並んでいる。

が、やはりぜんぶ読んだものだった。



手に取り、ぱらぱらとめくってみる。

モモちゃんもアカネちゃんもすでになじみの顔でそこにいた。



書棚に戻し、他の本をあたる。

何冊か手にとったり戻したりしているうちに

ふと、思いついたことがあり、わたしは児童書コーナーをあとにした。



クラシック音楽のカセットテープを

図書館で借りられることを教えてくれたのは

塾の友だちだった。



違う小学校のちえちゃんという絵の上手な女の子。

わたしが書いた下手な物語に挿し絵を付けてくれたり

塾の先生の紹介で一緒にイギリスの女の子と文通をしたりもした。



すこしハスキーな声で、くるくると巻いた髪の毛を持つちえちゃん。

わたしの知らない世界ばかりを知っている

ちょっとおとなな女の子だ。



ちえちゃんはよく漫画や本を貸してくれたけれど、

どれもこれもわたしには難しく読み終えるのにかなりてこずった。



さらに彼女が教えてくれたのが、クラシック音楽だ。



頭のいいちえちゃんは作曲家と曲名をさらさらと滑らかに披露する子だった。

なんなら「こんな曲だよ」と一節歌ってくれることも。



御年10才そこらの小学生である。

あこがれるには充分過ぎる相手であった。



「いいねえ」

「わたしもそれ聴いたことある」

「ピアノの先生に訊いてみようかな」



とぼけた受け応えをする裏で

「ぜんっぜん分からない」

と、漫画や本よりさらに手ごわい相手の出現に内心舌を巻いていた。



そもそも、いったいどうやったら田舎の小学生が

塾の休み時間にクラシック音楽の話など始めるものだろうか。

子供の世界は皆目見当もつかない。



しかし事実。

わたしは、そのちえちゃんとの会話のくだりを図書館でふと思い出し、

今まさに児童書コーナーをあとにして

クラシックのカセットテープの貸し出しコーナーに向かっているのである。



この辺かなぁ。

ないなぁ。



ちえちゃんいわく「柱みたいなところ」にあると言う。

頭がいいんだからもうちょっと分かりやすい説明をしてくれればいいのに。

柱だらけの図書館内をあてもなくぷらぷらと探し回った。



これかな?

しばらくして、その場所に行きあたった。



入り口からわりと近い二本目の柱。

結局ちえちゃんの言う通り大きな柱のような棚が目的のそれだった。



四辺がぐるりと棚になっており、

その一辺がカセットテープのコーナーとなっている。



見ると、ちえちゃんから聞いたような名前がずらりと並んでいる。

ショパン、リスト、バッハ、シューベルト・・

うん、うん?、うん、知って、る?。



曲名は・・全然分かんないな。

何番とか何楽章とか、ソナタとかワルツとか。

似たようなのばっかり。



ちえちゃん、なんて言ってたかなぁ。



「わたしはよく図書館でカセットを借りるよ。ベートーベンの月光とか」



あ、月光!



意味の分かる曲名だったから記憶の端に残っていた。

ちんぷんかんぷんだった目の前の棚が急に親しげに見えてくる。

ベートーベンはすぐに見つかり、〈月光〉もなんなく手に取ることができた。



図書館でカセットテープを、しかもベートーベンを借りるだなんて。

もうそれだけで、スキップものだ。



が、おとなはスキップなどしないので、

何食わぬ顔でわたしはそのカセットだけを借り、心うちは大満足で帰宅の途に就いた。



家に着くとすぐさまカセットデッキを茶の間で準備する。



借りてきたテープをそろりと差し込んで、

再生ボタンをぎゅっと押した。



驚いた。

てっきりオーケストラのじゃじゃーんという音が鳴るものと思っていたら

流れてきたのは、ピアノの音色だった。



はじまりは低い、厳かな音。

凪いだ海を照らす月明かりだ。

そのうちに弾む、けれど、なんだろう、必死に逃げてるような音。

草原を走る白馬のよう。

あ、今度は嵐の海!

波に跳ねる月明かり。



あぐらをかいた足でカセットテープを抱きながら

〈月光〉と名付けられたその曲にわたしは体を預けるようにして耳を澄ませた。



ちえちゃん。

すごいね。

ピアノの音が物語のようだよ。



心が音に振れて苦しくなったり、怖くなったり、怒ったりする。



その感覚が面白くて、わりと長めのその曲を

わたしはキュルキュルと巻き戻しては繰り返し聴いた。



閉じた瞼の奥にあふれる世界は、どこまでも自由だった。



以来、クラシック音楽のカセットテープを図書館でよく借りるようになった。

ちえちゃんにも、自分が借りて聴いた曲に関しては恐れず堂々と語ることができた。



つどちえちゃんは楽しそうにわたしの話を聞いてくれた。



習い事のピアノは大嫌いだけど

カセットテープから流れるピアノは大好きになった。



この時期、結構な数の曲を聴いたと思う。



けれど、ちえちゃんみたいに作曲家と曲名を覚えることも

曲名からメロディがすぐに浮かんでくることも残念ながら一切なかった。



ピアノもほとんど上達せず

先生に「図書館でカセットテープを借りている」なんて話もついぞすることはなかった。



もっと言うと、ちえちゃん以外の人にこの話題をだしたことさえないと思う。



特段、秘密の話というわけではないけれど

たぶんそれは、わたしとちえちゃんの世界の話だったのだ。



そして今となってはわたしの記憶の奥に眠る子供の頃の世界の話となった。



けれどしみついた記憶はときおり、

ピアノで鳴る音楽を物語としてわたしに見せることがある。



音が紡ぐ世界が映像として頭に浮かぶと

たちまち、あの図書館がよみがえる。



天気雨のあと。

湿った土がいきおい乾いていく匂い。

吸い込まれるようにこもって聴こえる音。



徐々に耳が慣れて、



カセットテープから聴こえるのは、ピアノが奏でる色とりどりの音楽。



心が自由にあふれていく。



「あら、あなた随分と大人になっちゃって」



頭の中で話しかけてくる声に、

久しぶりにそっと、こたえてみる。



そうなんです。

でもあの頃あこがれたおとなとは

ちょっと、違うんですけどね。








    text by haru    photo by sakura


































































こはる日和にとける

いつかの情景、いつかの想いを綴るエッセイ

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