#14 ゼラニウムの喫茶店


見上げた窓辺であかるい赤色が揺れていた



日に焼けた

『アルバイト募集中』の紙が

入り口の階段に貼ってある



ここでバイト、させてもらおう



狭くて急な

茶色いビニール仕様の階段を

踏みしめて、あがる





時は就職氷河期の真っ只中



大学の卒業式の当日に

内定取消しの電話を受けた



わりと大きな日本語学校だったのに

経営状況が、とか

人員削減を、とか

取消しの理由を言われたと思う



救いだったのは

電話口のその人が

とても申し訳ないという気持ちを込めた

優しい声だったこと



でも

そのせいでわたしは

「いいんです。いいんです」

としか、返せなかった



理不尽な取消しに腹をたてることも

悲しみに暮れることも

できなかった



ぷつり、と

そこからの記憶は消えている



母は

「式後、うどんを食べながら号泣した」

と話すけれど

わたしは

うどんも、涙も、覚えていない



「東京で頑張る」

そう、言ったことだけ

うっすらと

残っている





通るたび

窓辺の赤い花が気になっていた

純喫茶と銘打たれた喫茶店



学生の身で入るには

敷居が高く感じていた場所だった



ガラス地を覆うように

店名が書かれたドアを開ける



からんからん

と、ベルが鳴る



煙草のにおいが鼻をついた



「あの、バイト募集ってあったんですけど」



若い女の子が取り次いでくれて

キッチンの方から

責任者とおぼしき女性が出てきた



細くて小柄で

赤毛のショートカットに

パーマをあてている



目をぐるりと縁取ったアイラインが

くっきりと黒く

真っ赤な口紅と相まって

なんというか、

インパクト強めのおばあちゃんだった



「アルバイト?したいの?」



閑散とした店内に響く嗄れた声



「あなたいくつ?」

「履歴書、明日持ってきな」

「○時に来れる?」



矢継ぎ早に話が進んで

わたしは翌日

面接をしてもらえることになった



翌夕刻

ふたたびの階段をあがる



窓際の奥の肩幅ほどの座席に通される



左の窓にあの赤い花が見えた



昨日の女性は

「主任」と呼ばれていた



手元には

つい1週間前に卒業したばかりの

わたしのすかすかの履歴書がある



珈琲を飲みながら

主任はそれをじっと見ていた



そして

特に何を聞かれるということもなく



「明日から来れる?」

「はい」

「じゃあ、明日8:00に来なさい」

「ありがとうございます!」



トントンと採用になり

数十社と不採用で苦しんだ就活を思い

拍子抜けした



もうひとつ

大学3年から続けていた塾講師のバイトを

復帰させてもらえることになり



わたしは昼間は喫茶店

夕方からは塾で働くことになった



「あの赤い花はなんて言うんですか?」



勤めてしばらく経った頃

主任に聞いてみた



「ゼラニウム」

「春の花ですか?」

「どうだろう。

ここでは年中咲いてるから」



2階の窓辺で陽当たりがほどよいらしい



水がきれかけると

主任がおもむろに

片手鍋にたっぷりと水を汲んで

すたすたと窓辺に向かう



バルコニーのように突きだした窓を

ガ、チャリ、と

体を使って押し開ける



水がきれかけてることに気づくのは

主任だけで

その窓を開けることができるのも

店の中で主任ひとりだった



ざざざ、と

葉に水があたる音がする



ポキポキ、と

終わった花の茎を手折る音もする



そしてまた

ガ、チャリ、と窓を閉め

軽くなった片手鍋を振りながら

主任は颯爽と戻ってくる



細くて小柄で

姿勢の美しい人だった



常連さんにも

一見さんにも



古株のバイトにも

新人のわたしにも



ゼラニウムの花を気に掛けるごと

平等に

過不足なく

手を、当ててくれた



そうしてわたしは

一年ほどの時間をかけ

内定取消しの現実を

ゆっくりと日常に

染み込ませていくことになる



キャベツを刻む

氷を砕く

グラスを磨く



階段を拭く

床を拭く

テーブルを拭く



そんな日々が

眠れない夜を

ひとつ、ふたつと消していく



そして

笑うことも

冗談を言うことも

なんなくできるようになり



ナポリタンまで作れるようになった頃



思いがけず就職が決まり

バイトを卒業することになった



「おめでとう」

と言いながら

主任が

ほんとは寂しがっているのを

バイトの子が辞めるたびに

目にしていたので



なんと言ったらいいか

すこし迷ったけれど



言葉を変えても

結果は同じなので

ストレートに伝えた



キッチンのカウンターに肘をつき

いつもの嗄れた声で

「おめでとう」と

なんてことないふうに笑い



「よかったじゃない」

「がんばんな」

と、言葉をついでくれた



たぶん、帰りにロッカーで

煙草をふかしながら

しみじみするんだろうな



その丸い背中が頭にうかんでしまい



その日は

いつもよりも急ぎ足で店をあとにした



迎えたアルバイト最終日のことは

まったく覚えていない



主任とどんなふうに別れたのか

どんな会話を交わしたのか



景色のかけらすら、ない





それから十数年が経ち

久しぶりに寄ったその街で

店の前を通ると



見上げた窓辺に

あのゼラニウムの花は

もう、咲いていなかった



主任、いないんだな



覚悟はしていたはずなのに

途端、

ぐぐとした後悔が

喉の奥からせりあがってきた



当時のわたしは



怒りにも似た不安と

消えてしまいそうな心細さと

叶いもしない夢を追う無謀さで



心のすべてを

使い果たしてしまっていた



主任のことを

慮る余裕は

まったくなかった



最後

わたしはちゃんと感謝の気持ちを

伝えただろうか



体を労る言葉も

掛けられただろうか



自信がない



けれど

一縷の期待をこめて

無い記憶を手探りであさる



ねがわくは

せめて



「主任のこと、大好きだよ」



その言葉だけでも

たのむから

言い置いていてほしい、と



ほとんど祈るような気持ちで

赤く咲くゼラニウムを

窓辺に想った







text by haru  photo by sakura

















こはる日和にとける

いつかの情景、いつかの想いを綴るエッセイ

2コメント

  • 1000 / 1000

  • @スイスイさんへ。 オウンドの方にコメント頂いたのは初めてのことで、すごくうれしいです。 ありがとうございます! 「こはる日和にとける」ような文章を書きたいと思い、タイトルを決めました。 だからスイさんにそんなふうに言って頂けて素直にうれしいです。 毎回「こんなこと書いてもなぁ」と思いながら、でも書くことで「昇華」できると信じて書き進めています。 記憶の片隅のちいさなかけらを集めて、想いを見つけて、言葉にして。 救われているのはたぶんわたし自身です。 スイさんが「昇華している」と感じて下さって、改めて書いてよかったんだと肯定できました。 お声を残して下さりほんとうにありがとうございました! また書きます。 また読んで頂けたらうれしいです。
  • スイ

    2022.10.18 01:21

    とてつもなく不安な時期のお話なのに。その過程も全てひっくるめてharuさんの文章が心地よくて。一気に読んでしまいました。「こはる日和にとける」まさにそのタイトル通り、切ないのにでもそんな過去も暖かい小春日和の日差しに溶けてしまうほどに昇華しているharuさんの感性がとても素敵なエッセイですね。