せやくんはわたしのことを
ちゃーるー
と、よぶ


おかあさんのおとうとだから

わたしにとって

おじさん、だというせやくんは

けれど

わたしにはちっとも

”おじさん”にはみえない



おかあさんの兄妹は

ぜんぶで5人いて

みんなおしゃべりで

すっごくにぎやか



あつまるといつも

おおきな笑い声がとびかうのだけれど

いちばん下のせやくんだけは

いつもすみっこで

しずかに

ほほえんでいるだけ



「せいや」で

「せやくん」



みんながよぶから

わたしもそうよんでいた



ばあちゃんちにあそびにいくと



ミシ、ミシと

階段をならしながら

二階からおりてくるせやくんが

「ちゃーるー、いくかー?」
と、いつもの声をかけてくる


せやくんの目は

ばあちゃんとおんなじ

すいこまれるような、くろいろ


まつげがみっちりはえていて
すこしくぼんだ目で
しっとりとみつめてくる


にっこりほほえまれると
ことわる
なんてできるはずもなく


「いく!」



わたしは

ばあちゃんの膝からおりて

たべかけのおやつもそのままに

赤いつっかけをはいてかけだした


「ひとまわりだけにしてよ!」

お母さんの声が

おいかけてくる



そとにでると

そらはすでにたいようでみちていた



あさは

ハトとねこしかいなかったのに

ひるになって

セミがせんりょうしてしまったみたいだ



おえー


あついし、うるさいし

わたしは

くびをちぢめて

わざとへんな声をだしてみせた



わらいながらせやくんがちかづいてくる



「のらんね」



ポンポン
とかわいた音をたて
スクーターの座席をたたく



わたしのばしょは
せやくんの前


そこに立つと

せやくんのうでとあしが

ぎゅっとわたしをはさんで

ガードしてくれるのだ



スクーターは
よごれたしろいろで
あんまりきれいじゃないけれど



どんなにあつい日も
風をきってすすむそれにのれば

すっかり

むてきのきぶんだった



とはいえ
せやくんのスクーターは

いつも

のろのろのあんぜん運転



車があまりとおらない道を

きょうも

海にむかって

ぶっぶっぶーと

すすんでいる





ひがたの海は

海水浴でいく海とちがって

みずが少なくて

こわくない



海岸沿いに

スクーターをとめ

そのまま石のだんだんをおりて

貝だらけの浜についた



海のにおいがもわと濃い



「あつかねー」



言いながら

せやくんは

わたしの顔の汗を

タオルでぐいんとふいてくれる



そして

石だんに腰かけ

とちゅうで買った

つぶつぶのみかんジュースを振り

かぽとあけてくれた



おきにいりのこのジュース



つめたくてあまくて

ととと、と口にはいってくる

みかんのつぶが

なんともいえずおいしいのだ



ジュースをのみほすと

わたしは両手でもった缶を

口につけたまま

ぐっと逆さにして

おしりをたたき

さいごのひとつぶまですいとろうと

ひっしになる



とんとん

ととと、とん!



しつこくおしりをたたく



「もうよかろ?」



さいごは

せやくんがあきれたようにそう言って

缶をわたすよう手をだした



それから

わたしたちは

浜をあるきながら

いつものさくら貝をさがしはじめた



いろんないろの

じゃりじゃりした貝だらけの浜で

ときおりみつかる

さくら色をした

いっとうきれいな貝だ



せやくんが

ちいさなガラスびんにためている



めったにみつからないから

ほんのすこしずつだけれど

ちいさなびんは

そろそろいっぱいになろうとしていた



「あった!」



とびつくように

拾って手にとると



「ちがったー」



たいていそれは

ふつうの貝が

ひかりのかげんで

それっぽくみえただけで



がくしゅうしないわたしは



あった!

ちがったー



を、あくことなく

くりかえすのだけれど



せやくんは

もはや

わたしのそのくだりには

なれっこで

はんのうすらしてくれない



つまらないから

あいまで

ぐるぐる巻きのおおきな貝をみつけては

耳にあて



うそかほんとか

貝にしみついているという

とおい国の波のおとを

そばだててさがしたりもした



「ちゃーるー、あったぞー」



さくら貝をみつけたせやくんが

てまねきしてわたしをよぶ



つっかけがぬげぬよう

貝をなるたけつぶさぬよう

きをつけながら

やじろべえのように

手をひろげて歩みよる



ほらと差し出された

せやくんのてのひらをみると



いちまい

わたしの爪ほどに

ちいさくてうすい

さくら貝が

砂つぶをつけてのっていた



「きれいかねぇ」



手にとり

くうきにあてる



しめった砂が

いっしゅんでかわいて

ちょんとはらうと

ぽろぽろとおちた



ひかりを透かすさくらいろ



貝、というより

花びらだ



せやくんは

ポケットからびんをだし

コルクのせんをぬくと

そのなかに

そっと

さくら貝をおさめた







それから何年かして

東京にでたせやくんは

そのままあっけなく

逝ってしまった



ようちえんのおゆうぎかいで

にんぎょひめの役をもらった冬だった



幼いわたしには

ちかしい人が亡くなるということが

どういうことなのか

はじめてで

ぼんやりしていて

よく分からなかったけれど



もう会えない、という

事実だけは分かり易く

鋭く刺さってきて



その現実が

時折、ぶわっと

波のように寄せてきては

海の底にひきずりこまれるように

哀しかった



そしてなにより

だいすきなばあちゃんが

会うたび

どんどん小さく弱くなっていくのを

なんとなく感じてつらかった



時がたち

大人の会話が分かるようになった頃

せやくんが最期に

海のそばにいたと耳にした



たちまち

あの干潟の海が

よみがえる







「もうよかろ?」



しぶしぶ

みかんジュースの缶をわたすと

せやくんは

ながいゆびで

じぶんの缶とあわせて

柔くはさむ



白いシャツがきらりと光り

海風にふかれて

まぶしそうに

目をほそめるよこがおがみえた



せやくんのまわりだけ

じかんがじょじょに止まりそうで

獏としたふあんが

わたしのむねを

ぎゅっとつねってくる



「せやくん」



シャツのそでをひっぱり

わたしは



おえー



と、くびをちぢめてみせた



せやくんはわらい



「さくら貝ばさがすか」



と貝だらけの浜へおりていった









text by haru   photo by sakura












































































青い網戸を透かすレースのカーテンが風を抱いて揺れている。 



それはくたりと柔らかで、日に灼けたような色をしていて



ほわ、とふくらみ、さらにふわっと踊ったかと思えば

勢いよく、ぺたん、と網戸に吸いつくようにしてしぼむ。 



そっか、あそこに風がいるのか。 



見えない風を捕まえて見せてくれるカーテンの、

その働きぶりをいたく気にいったわたしは 

先刻からその動きをロッキングチェアに腰かけ観察している。 



炭鉱の長屋の、茶の間の続きにある狭い和室である。



父の趣味のロッキングチェアは

和室には不釣り合いな取り合わせではあるが

もはや見慣れているので、特段どうということはなく 

ただブランコ好きとしては揺れるその椅子を

なんとか巧く乗りこなしたいとは思っていた。 



というのもその椅子は、

子供のわたしには座った際の体重のかけどころが難しく

思いきり背もたれに寄りかかろうものなら 

際限なくひっくり返ってしまいそうで

ちょっとおっかなかったのだ。 



たいてい普段のわたしは足がつくよう浅く座り 

軽くブランコを漕ぐ要領で揺らすにとどまっていたのだが 



カーテンの動きにつられて

つい、勢いつけて畳を蹴ってしまい

ロッキングチェアは大きく後ろにのけぞった。



おっと、っと、、、



体勢を立て直そうとした瞬間だった。


 

カーテンがふわんと大きくふくらみ、

わたしの膝をさわと撫でた。 



こちょばゆい・・ 



膝に触れるか触れないかの微妙な距離で

まるで生きてるみたいにカーテンが踊る。



凝視するわたしの視線なぞおかまいなしだ。



風を得ていきいきと動くカーテンに目を奪われた。



ほわときて、ふわっ 

ふわん、の、さわ



ときおり、ぺたん



くりかえす

ほわときて、ふわっ 

ふわん、の、さわ





めっり、めっり。 



教室のあちらこちらでこっそりと音が鳴っている。



字を書きながら、下へ左へと手をずらすたびに

汗だか脂だかでくっついた紙から手を剥がす時に立つ音だ。



小学一年の一学期、とある放課後。 

市の展示会に出す硬筆の作品を数名で居残って書いている。 



ときおり走り抜けるように吹く風が重たそうなカーテンを揺らすけれど

それでは事足りず、気温がぐんと上がって汗ばむ午後だった。



めっ、り。



わたしも書き終えた紙からゆっくりと手を剥がす。 

手首を返した拍子に右手の小指側がうっすらと黒ずんでいるのを見つけた。 



うへっ!



顔をしかめ、恐る恐る鼻を近づけて匂いを嗅いでみる。

ふでばこの中と同じ匂いがして、

それが鉛筆の書き跡が擦れてついたものだと気づいた。 



「ゆきちゃん」 



すぐに隣の席のゆきちゃんをひそひそ声で呼び、

ニヤリと右手の汚れを披露した。 



小さく驚いた顔をしたゆきちゃんは、自分のもすかさず確かめる。 

そうしてくるりと返して見せてくれた右手は、

わたしのよりも一段濃く黒々と光っていた。 



「すごいっ!何枚書いたと?」

「えっと、、6枚かな?」 

「えーっ!わたし3枚よ。見せて見せて~」



先生が離れたところにいたおかげで、こそこそ話が弾む。



わたしはぐいと体を寄せて、ゆきちゃんの机の上の何枚もの清書された紙を覗きこんだ。

どの文字も大きくマスいっぱいに書かれていて、線も太く整っている。



「じょうず!」



これで6枚書いても合格がでないのなら、

わたしは一体何枚書けば終われるのだろうと気が遠くなった。



ただ、そんなことより。 

と、心うちにキラリとひらめいてしまったことがある。



この右手のうっすらとした中途半端な黒ずみ。

これをゆきちゃんのように黒々と光る程に濃くしてみたい。



わたしは今しがた書き上げた清書を先生には見せずに 

次の1枚を机にセットし、早速新たに書き始めた。


 

今度は字をもっと大きく、濃く、

そして少なくともあと3枚は書くためにスピードもあげなくっちゃ。




さわ

さわ



ん?

こちょばゆ、い? 



いつの間にか椅子に丸まって眠ってしまっていた。



浅く腰かけていたはずなのに

たっぷりと背もたれまで身をまかせてしまっている。



僅かに飛び出た爪先をカーテンがさわさわと撫でていた。 



「起きたね?」



母の声が言う。



「疲れたとやろ。遅くまで残って頑張ったけんね」



ハッ!と、右手を返して確認する。 



「真っ黒!!真っ黒よ!お母さん!ねえ、見て!」 



いきおい起き上がろうとしたけれど、

ロッキングチェアが言うことをきかず、もたついてしまった。



「そうよお。知っとるよお。10枚も書いたとやろ?すごかねぇ」



そっか、帰ってきてすぐにお母さんにしゃべったんだ。



椅子に揺られながら右手を掲げてまじまじと観察し、 

ゆきちゃんのより黒く仕上がったんじゃないかと満足する。 



足元のカーテンは西日があたってオレンジ色に光っている。



どうやらロッキングチェアは思いきり寄りかかっても

ひっくり返ることはないようだ。



「そろそろお風呂行くよー」



母の声が鳴り



あーあ

せっかく黒く作ったとに洗わんといけん



椅子に揺られながらわたしは

単なる鉛筆の痕を名残惜しく思っている。                                                                       

                                                                 








              text by haru  photo by sakura






二月のその日

あたりを靄と煙らすこまかな雨が

しつこく降り続いていて

わたしは朝からずっと

うねる前髪をもてあましていた



「とにかく坂の下におらすけん、早く行って!」



親友からの電話は

最後にそれだけ言い置いて

ガチャリ!と切れ



つーつーつー

と耳元で機械音が鳴っている



坂の下って…



わたしの家は

そもそも

三方向に坂をもつ



どの坂よ



呟きながら

けれど

はやる鼓動が「行け」と急かすのを

聞かぬふりなどできなかった



「ちょっと行ってくる!」



母はなんと思っただろう



帰宅してすぐ

いつもの友人との長電話で台所を占領し

ようやく終わったかと思えば

今度は

制服のまま飛び出していった娘のことを



カレンダーを見て

苦笑い

してくれただろうか



結局

三つ目の坂の下で

ようやく彼を見つけた



二つ目から移動しながら

次だ、と

そこにいるはずだ、と

心だけが先を行く



反して

体がどうにも前に進まない



まるで両足は

熱いドロドロの液体でも

充填されたかのように

操縦不能となってしまう



傾けた傘をすこしだけ上げ

僅かな視界で

その場所を見る



いた

ほんとに、いる



靄のなかで

傘もささずに佇む

黒い学ランの人影がある



その立ち姿は

たとえ

遠くからでも

靄でかすんでいようとも

わたしには

見間違えようがない



毛穴で感じるその気配が

彼だ、と訴えてくるのだから



わたしは

意を決し

前へと、足を踏み出した





彼とは中学で出会った



二つの小学校が中学で一緒になる

そのもう一つの小学校の子だった



いわゆるモテるタイプの男子で

勉強ができて

スポーツ万能

背も高くて格好良かった



席が斜めで

最初の班が同じになり

すぐに打ち解け気軽に話すようになる



字がきれいで

数学を教えるのが上手

球技もリレーも水泳も

なんでもできるのに

それを鼻にかける感じのない

フラットな人だった



それがだんだんと

班内での口数が減り

目を合わせてくれなくなり

すると

同じくしてわたしも

彼の目を見れなくなっていった



ところが

班が別々になると

今度は

教室の端と端で

ふしぎと目が合うようになり

そのたびに心臓が跳ね

耳のうしろが熱くなり

操縦不能の反応が

体のあちこちに現れる



目が合い

目を逸らし

また、目が合う



そのひとつひとつを

思い返す夜

心は隅々まで

とろりと満たされていった



クラスは違えど三年では

生徒会で行動を共にすることも多く

互いの気持ちを

其々の友人がもてはやし

周囲は

「付き合っちゃえば?」

みたいな雰囲気になったけれど



目が合うだけで充分だ、と

気持ちは通じ合っているんだ、と

わたしは

その居心地の良さに

すっかり胡坐をかいていた



そんなある日の放課後



「1組で今、告白されてるってよ!」



親友が血相を変えて走ってきた



もともとがモテる人なのだ



小学校から彼を想っている子は何人もいたし

さらに背も伸び

声は低くなり

学校でも益々目立っていく存在の彼を

わたしだけが、なんて

都合のいいこと

あるはずもないのに



胡坐をかいていたわたしは

そんな容易なことにさえ思い至らなかった



別の誰かが彼に告白する

という事態はまさに

のどかな晴天に不意に轟いた霹靂だった



ぼおっと思考が止まったわたしを

親友が手を引き告白現場に連れていく



そこはすでに野次馬でいっぱいで

人数以上の熱気に

一瞬で気圧されてしまった



しばらくして

ガラリ、とドアが開き

真っ先に出てきたのは

告白した女の子の友人だった



「オッケーもらいましたー!!」



万歳せんばかりの勢いで

彼女が叫び

続いて

恥ずかしそうに出てきた当人の背中を

大きく叩いて喜んでいる



現場は歓喜の声で盛り上がり

わたしは彼が出てくるのを待たず

走ってその場から、逃げた



翌朝

納得のいかないわたしの親友が

彼を問い詰め

「隣についてきた子がしつこかった」

と、いう言質を取ったが

じゃあ別れる?と訊くと

それにははっきりと返事をしないらしく

親友は

お手上げです

な、顔をし

始業のベルと共に

自分の教室へ戻っていった



廊下に残されたわたしは

二本の足を辛うじて保ち

自分の心に触れぬよう

薄く息をし

視線を遠くに、遠くにと

追いやる



ただどんなに

知らぬふりをしてみても

手元にある感情が

ズタズタであることは

頭のうしろで

気づいていたけれど





「迷惑、よね」



坂の下はすぐ交差点となっていて

車の往来もある



目の前の歩行者用信号が

何度も赤と青を繰り返していて

すでに10分以上

わたしたちは

ただ向き合っているだけ

の、無為な時間を過ごしていた



たぶん

わたしの親友に言われて

ここへ来たんだろうな

優しいから断れなくて

困ったんだろうな



彼の

すこし寸足らずな

ズボンの裾を見ながら

そんなことを思う



つと

灰色に暮れそうな気配に気づき

一気に焦りはじめる



「いや・・」



ぼそ、と

彼が応える



耳慣れた声だ

口をすぼめるようにして話す

くぐもったハスキーな声



「雨、」

「ああ、」

「時間が、」

「うん、」



細切れの言葉しか

息がもたない



「チョコ、」

「あ、」

「彼女から、?」

「ああ・・うん」

「そっ・・か」



ほんとはなんでここに来たと?

言いたいことはないと?

本当にあの子のことが好きと?



訊きたいことは

なにひとつ訊けず



「わたしが、告白、したら、困る、よ、ね」



親友の気持ちに報いなきゃ、と

変な思考回路に陥り

雨に追いたてられ

日暮れに焦った挙句

口をついて出た言葉だった



「えっ、」



と驚いた彼の

けれど

その

次の言葉を聞く強さは

もはや、なく



「なんか、ごめんね

だいぶ濡れたよね

風邪ひいたらいけんね

暗くなるし

ごめん

もう帰ろう

じゃあね!」



今更気持ちを伝えたとて

もう遅いんだ、という現実が

だしぬけに

やけにクリアに

突きつけられ



恥ずかしさでいたたまれず

歯痒さと後悔も

続けて押し寄せてきて



それらを握り潰し

ぐちゃぐちゃになった気持ちを

せめてそうと悟られぬよう

取り繕って

放り投げた



さらに

あんなに重たかった足は

軽々と回れ右をし

来た道を逃げるように駆け出した



ぶれる傘のなかで

こまかな雨が舞う



うねる前髪が

おでこに張りついて

鬱陶しかった



もう、やだ

もう、ぜんぶ、やだ



と、

ここで

わたしの中学時代の記憶は

強制終了となる



その後の日々も含め

三年分記した日記は

すべて捨ててしまった



にも、かかわらず



いまでも折に触れ

ありありと

そして

仄かな傷みを伴って

彼との日々は

明らかに蘇る



目を逸らし伏せる睫毛も



泣いてるわたしに気づいて

駆け戻ってくれた日、

なんかもあって

その時の息をきらした肩も



すれ違いざまの咳払いも

くぐもった声も



そして気づくのだ



ああ

彼が

彼のそのすべてが



わたしの愛すべき

青春そのものなのだ、と









text by haru  photo by sakura





























































氷の上は透明なにおいがする。



それはたとえば

まあたらしい教科書や、消しゴムみたいに

まっさらで透きとおっていて

わたしはつい思いきり吸いこみたくなるのだけれど



鼻がぴりりとひりついてしまうのでやめておく。



”4:44”



大きなデジタル時計が不吉なその数字を表示する。



「パトロール!パトローール!」

わたしは武さんに声を掛け、

それまで夢中になっていた"宝探し"を一旦中断し

ふたり揃ってリンク内をくまなく周回し始めた。



屋根があるだけでほぼ屋外のようなスケート場。



夕方の冴えた空気を切るようにして滑る。

すーいとひと足、すーいとひと足。

単調な繰り返しなのに、ただただ楽しい。

いつまでも滑っていられるきぶんだ。



わたしたちは時計が”4:45”になるまでの一分間。

まわりの客たちが転んだり衝突したりしないか

目を光らせながら念入りにパトロールし

今日も無事任務を完了することができた。



ここは我が炭鉱町が誇る遊園地。

その敷地内のイベント広場に冬季限定で開設される

巨大なスケート場である。



わたしと武さんは小学四年の冬から毎年

『すいすいカード』というフリーパスをお年玉で購入し

塾のない放課後は毎日のようにふたりで通い詰めていた。



家の目の前に広がる遊園地ではあるが

その敷地は広く、スケート場に続く裏のゲートまでは

小高い丘をひとつ越えなければならない。



そのため「5時半まで」と決められた時間を無駄にせぬよう

学校から帰ると急いで準備し、飛び出すように家を出た。



到着すれば遊園地の入口も、スケート場の入口も

ペンギン柄の『すいすいカード』で通してもらえて

さらにスケート靴もそのカードで借りられる。



めでたく4時前にはリンクの上というすんぽうだ。





そもそもわたしにスケートを教えてくれたのは父だった。



父も学生時代の冬の楽しみはスケートだったらしい。

九州は雪が積もるほどは降らないので

スキーや雪遊びに馴染みのない地域ではあるけれど

思えばなぜかスケートには親子で縁があったことになる。



遊園地に初めてスケートリンクが張られたのが

たしか小学3年の冬だったか。



最初は家族で出掛け、その時初めてスケート靴を履かせてもらった。

父が慣れた手つきで靴紐をぎゅっぎゅと締めていく所作が格好良く

重たいスケート靴に足が固定された感触が新鮮だった。



鋭い刃一本で立てるとはとても思えなかったけれど

「このゴムの床の上やったら歩けるけん立ってみんね」

と父に支えられ、恐る恐る立ち上がると

覚束ないながらも歩けることが分かり

いつもよりぐんと高くなった目線で見える世界に

わたしはふわふわと心が踊った。



ただ、氷の上となるとそう簡単にはいかなかった。



手すりを持っていても足だけひょいと掬われる。

父が前から両手を握ってくれると言っても

腰が引けて立てる気さえしない。



「む・りーーー!!」



と、幾度叫んだか分からない。



周りにはわたしのような初心者もいれば

父のようにすいすいと滑れる人もいる。



わたしもあんなふうに滑れるようになるのだろうか。

尻餅をつくのにも飽きてへとへとになった頃

父が鉄製の補助椅子を調達してきた。



「これに座ってみんね」



車椅子みたいに父に押してもらうと

それは思いのほか、いや思った以上に

最高に面白かった。



椅子に座りながらスケート靴を氷に当てれば

自分で滑っている感覚を味わえたし

背中側から父がバックで引っ張ってくれると

後ろ向きに景色が勢いよく遠ざかって

ジェットコースターに乗っているようだった。



そのうちに椅子を押しながらであれば

わたしでも滑れることが分かり

面白さは一気に加速度を増して

わたしはすっかりスケートに夢中になった。



その後父にねだって何度か通い

椅子を手放し、ひとりで滑れるようになった頃

「わたし、スケート滑れるようになったとよ」

と自慢半分で仲良しの武さんを誘ってみた。



すると武さんは持ち前の運動神経で

難なくその日のうちにひとりで滑れるようになり

わたしは「ひょえ~」と呆気にとられたのだった。






さて、魔の4:44を今日も無事過ごし果せたわたしたち。



4は”死”を連想させる数字だと安易に思い込んでいる。

その為、リンク上での事故が起こりやすいとふんで

パトロールすることに決めたのは最近のこと。



そもそも常時アルバイトのお兄さんがリンク内には居て

プールでいうところの監視員のような役割を果たしているのだが

年上の彼らに憧れて始めたという節もある。



なんせ毎日のように通い詰めているので

そのお兄さん達とも顔見知りとなり

もはやカードを見せずとも

「こんにちは~」と言えば

「はいよ~」とカウンターから

ぴったりサイズの靴を出してもらえる仲なのだ。



揃いで明るいグレーに赤のラインが入ったウィンドブレーカーを着こなし

手を後ろ手に組んで軽やかな滑りを見せるお兄さん達。



かっこいい・・・。



単純な小学生であった。



「ちーちゃん、なんか食べる?」

リンクを降りて武さんが訊く。



「食べよう食べよう!」

おやつも食べずに家を出ているので

お腹ペコペコなのだ。



ビニールで囲ってストーブを焚いている一角に

軽食を販売するカウンターがある。



わたしと武さんのお気に入りはそこのアメリカンドッグで

スケートの合間によく食べていた。



ふっくらと揚がった甘い生地にくるまれた魚肉ソーセージ。

ケチャップで食べるそれの美味しいこと!

最後のカリッと香ばしい付け根まできれいに食べあげた。



「もいっかい、宝探ししよう!」



わたし達は急いでリンクに戻る。



ちなみに当時はまっていた”宝探し”とは

ヘアゴムやシールなど

小さくて可愛いものをひとつ、

リンクの端のどこかに隠し

相手が隠した物をどちらが先に探し当てられるかという遊び。



端っこはポールが何本も複雑に組まれていて

小さなものを隠すには程良い場所なのだ。



「武さん、隠した~?」

「隠したよ~」



リンクの中央に集まって「せーのっ!」でスタートだ。



と、その時。





すーーーーっ。



わたし達の脇を真っ白い天使が横切った。



「ふ、わあ・・」



一瞬で目を奪われたその天使は同い年くらいの女の子だった。



真っ白なコート(わたしの赤いもったりとしたジャンパーとは全然違う)に

ふわんと白い手袋(これもわたしのピンクのキャラクターものとは雲泥)、

さらとなびく髪の毛は肩よりも長く、

何といっても目を惹いたのは、その白いスケート靴だ。



先がつんと細い大人のブーツみたいで

借り物でごつごつの黒色のこれとは全くの別物。



「かわいいね・・」

「うん、かわいい・・」

「誰だろ?知ってる?」

「知らない。見たことないね」

「だよね」

炭鉱町の子でないことは明らかだった。



すると、その子がおもむろに腕をぎゅっと胸の前で合わせ

くるんとスピンをした。



「わあ!すごい!」



まだ練習中なのかぎこちなさはあったけれど

繰り返し同じ動きを確認するその姿ごと

氷の上の天使としか喩えようがなかった。



そして彼女が一旦勢いをつけて滑りだすと

そのスピードに反して音はなめらかで柔らかく

近くを過ぎるときだけ

—ザッ、ザッ

と、氷を掻く音が響く。



わたしと武さんはリンクの真ん中で突っ立ったまま

宝を探すことも忘れて暫く見惚れてしまった。



大音量で流れるポップな音楽の中で

彼女のまわりだけはクラシック音楽が流れているような。

そんな優雅な時間だった。



以来わたし達は「今日は天使来るかな」と

スケート場へ行くたびに楽しみにしたのだけれど

残念ながら出会えたのはその一度きりで

けれどたった一度の出会いは子供心に鮮烈に残ったのだった。





さて、とっぷりと日は暮れて5:30である。



スケート靴を脱ぎ、ぺしゃんと潰れた感覚で地面に足をつく。

足は軽いはずなのに地べたが硬く感じて歩きにくく

この瞬間はいつもトランポリンから降りたときみたいな

へんてこりんな気持ちになる。



遊園地は5:00には閉園しており

スケート場から園の出口までの道のりは、しんと暗い。



ゲートの向かいにいつも停まっている焼き芋屋で

焼き芋を一本買い、はんぶんこにして頬張った。



「あっつ!」

「うっま!」



手の中で湯気をあげる焼き芋が

「今日はほくほくのまっ黄色でラッキー」と

わたしは内心思っている。

(武さんは「ねっとりタイプ」が好みなのだ)



アメリカンドッグに焼き芋。

かっこいいお兄さん達に・・・





「天使!」

「ん?」

「あの子天使みたいやったね」

「そうやね」

「天使、明日も来るかなあ?」

「どうやろ?」

「来たらあのくるって回るの教えてもらおうよ」

「いいねえ」



わたし達の冬は始まったばかりで

すいすいカードの期限はまだ一か月も残っている。









text by haru  photo by sakura










































しっとりとすべらかな白は

きみによく似合う




僕はずっとそう思っている





凍てつく空気が

光を纏った朝





ふわり、風にのり

きみのもとへと行けたんだ





窓枠で頬杖をつき

長い時間をかけて

ぼんやりと

空を見つめていたきみは





時おり

口にあてた人差し指を

甘く嚙むような仕草をみせ





そう、それは

いっしょに暮らしていた

あの頃のままで、

僕はたちまち

二人だった時間に戻ってしまう





たとえば思い出すのは

出逢って何度目かのクリスマス





ふっくらと、白い両の手を

口にあて、息をのみ





黒い瞳を

艶と濡らして




僕が差し出したちいさな箱を

喜んで受け取ってくれた日のこと、だろうか





あるいは

仕事に集中している僕の横で

気づけば

しかめ面で仁王立ちしていた

そのふくれた頬だろうか





ねえ、いったい

きみは

何を想って

空を見あげている?





刹那、

風が立ち

木々が鳴り





きみの目が

かちり、と

僕を捉えた気がした





「おばあちゃん!」





可愛らしい声が

きみを呼ぶ





今宵は

家中が芳しい香りに満たされ





にぎやかで

穏やかな時間が

ちゃんと

きみをくるんでくれることだろう





風は止み

かたり、と椅子を引いて

きみが立ちあがる





そうだね

僕も往くよ





まだもう暫く先だろうけれど





つぎの僕も

また、かならず

きみを見つけるから





なんて

歯の浮くようなことを言ったら

「そんな調子いいこと言って」

と、きみは

頬をふくらませてみせるだろうか





それなら

それも悪くない、と





僕は

凪いだ風に言い置いていく










merry  christmas!











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ぽ、と温かい




あの日

胸に抱いたあなたの体温を

昨日のことのように覚えている





むっちりとちいさな手が

ぎこちなく

わたしの頭を撫でた日のことも





まっ赤な顔で

欠片のような歯をぬらして

泣いていた日のことも





そうね

あるいは





おでこにかかる髪を

ぽやと風になびかせて

わたしの胸に

飛びこんできた日のことさえ





幾つもの日々を

まるで

昨日のことのように





けれど

思ったよりもずっと早く

あなたはわたしの背丈をこえ





たしかな思慮をはぐくみ





振り返りもせずに

あっけなく

巣立ってみせた





そして

わたしの知らぬ世界で

心を焦がし





かけがえのない人を得て





あなたもようやく

あなたの温かさに気づいたのね





もう

わたしにできることは

何もないんでしょう?





それでも





雨がやわらかな土に沁み入るように

いつかそのしずくが空へと帰るように





あのぬくもりに似たしあわせが

どうか

あなたの傍で

永く巡るように、と





呆れるほどつよく

つよく

願ってしまうのです















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水面の光がちらちらと瞬いて

川の背ではしゃいでいる



一人暮らしのアパートから徒歩で10分

いつもの河原はいつも通りの静けさだった



文庫本を一冊持ち

ぶんぶんとその手を振って歩く



まだ昼過ぎだというのに

日差しがオレンジ色に垂れて

日暮れがはやい東京に

また、置いてけぼりにされる



大学の授業がない日

午前だけの日

さぼりたい日



わたしはひとりでよく川を訪ねた



九州の実家近くには

海はあれど川はなかった



だから

川の近しさは上京して知った



ふかふかの草を選んで腰を下ろし

携えてきた本を脇に置く



ほうっと息を吐き

足を投げ出して

見るとはなし、といったふうに

川を眺める



特段きれいでも雄大でもない

街を流れるふつうの川



癒されもしなければ

心が洗われることもない



ただ

これからどうなるんだろう

わたしはどうするんだろう



そんな漠とした思いを

捨てに、

わたしはここへ来ている




あれは二年前

まだ寮に住んでいた頃



しーちゃんが珍しく部屋を訪ねてきた



しーちゃんは

ちゃきちゃきの土佐人で

小さな顔に大きな目が印象的な美人さん



野暮ったいわたしとは

あまり接点がなかったのだけれど

寮生活二年目で

数少ない残寮組となり親しくなった



「川、行く~?」



ドアを開けるなりの第一声



見ると

すでに準備万端の格好をしている



ほっそりとした体にすいつくような

ぴっちりとしたジーンズ



細いなあ



ぼんやりと、思う



「行く?行かない?」



しかし

ちゃきちゃきのしーちゃんは

ぼんやりなどはさせてくれない



「あ・・うん、行く行く」



勢いに押されるようにして

わたしはそう応えていた



外は絵にかいたような秋晴れで

空気がかろやかに澄んでいた



しーちゃんは歩くのも速い



わたしの知らない道を

ずんずんと迷いなく颯爽と歩く



わたしはというと



あ、柿だ

でも人んちのだよなあ

昔は人んちのビワとか、もいで食べたけどなあ

東京じゃだめだよなあ



立ち止まり

いちいち耽ってしまう



「行くよ!」



つど

しーちゃんの声が鳴り

わたしは慌てて小走りで追いつく



耽る、鳴る

を繰り返し

ようやく川に行き着いた



一時間か、それ以上

ずいぶんと歩いた



日がすでに夕方のようだ



「しーちゃんはよく来るの?」

「たまにね」



かっこいいなあ、と思う



大学から寮までの道以外を

散策してみるというその余裕が

大人だ、と思った



「かっこいいね」

と言うと

「どこがよ?変なの」

と笑われた



わたしたちは特に何をするでもなく

二人並んで座り

川を眺めて過ごす



しーちゃんのそんな姿は稀だったので

こっそりと盗み見たりもしながら



終わったり終わらなかったりする話を

思いつくまま

ぽつぽつ交わす



すこしぶっきらぼうに感じていた

しーちゃんの少ない相槌や

端的な言葉は



川を前にすると

ふしぎと

すっ、とわたしに届いた



含みのないそれらはむしろ

澄んでするりとわたしを通過し

留めずともよい気楽さが

なにより心地よかった



ぽつ、ぽつ

するり、するり



わたしたちの会話は

川の背に乗って

瞬きながら消えていった



日が暮れて

「帰るか」

と、腰を上げ

「お腹すいたね」

と顔を見合わせる



「いくら持ってる?」



互いに財布を見せあうと

中は小銭だらけで

二人合わせても200円足らずしかない



「これじゃ肉まんも買えないじゃん」

「ほんとだー」



仕方ない

寮まで我慢するしかない



わたしたちは嘆きつつも可笑しくて

笑いころげながら大通りに出る



と、その通りの先に

赤い大きな提灯をさげた店が見えた



看板には『焼き鳥』の文字



二人同時に同じことを思う

「焼き鳥なら買えるんじゃない?」



よっしゃ!とばかりに駆け出し

開店間もない店先に

あっという間に着いた



いい具合に

入口の引き戸の横に

持ち帰り用の小窓がある



「すみませーん」

しーちゃんがガラリとそれを開けた



店の人に

「もも、二本ください」

と注文する



「・・以上ですか?」



すこし怪訝な顔をされ

わたしは一瞬怯んだけれど



「はい、以上です」

と言い切るしーちゃんを加勢するつもりで

隣で堂々と胸を張った



渡された焼き鳥は

たらりと甘辛のタレを纏い

つやと光っている



「買えたね」

「やったね」



わたしたちは並んで歩きながら

焼き鳥を噛みしめるようにして食べた



おいしい!おいしい!

と、何度言ったか分からない



なけなしの200円で買った

その日の焼き鳥は

ほんとうにおいしくて…





あれは忘れられないなあ



と、川を見ながらぼんやりと思う



尻をのせた草がひんやりと湿ってきた



脇に置いた本を手に取り

ぱらと開く



詩人の日記が綴られている



含みのない

正直な言葉



川で読めば

するりと喉元を過ぎていく



ぼんやりと霞がかったわたしの思いが

川の背に乗って流れていった



「お腹すいた」



声にだしたつぶやきが

夕闇にぽとんと落ちる



わたしは尻を払い

本を抱いて



さてと

何を食べようか

と、歩き出す











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重たげに落ちる夕日に雲がにじみ、遠くの空が赤々と熔けてゆく。



風呂からの帰り道、カナカナ蝉が鳴きしぐれていた。

わたしは母と妹とたばこ屋の店先でカップアイスを選んでいる。



「暑かですねー」



水色の小花柄、袖なしワンピース姿の店のおばちゃんが

つっかけを履いて奥から出てきた。

がたがたと引き戸が開くと、煮物の甘い匂いもついてきて

余所の家を覗き見たような気分になる。



慌てて、冷凍ボックスの中に目当てのアイスを見つけ

「あった!お母さん、4こあったよ!」

と指を差して母に教えた。



見つけたのはうす緑色の『SKY』という名のアイス。



普通のアイスクリームよりも軽い口当たりで、

けれどシャーベットよりは食べ応えがあり

鼻に抜ける香りは初体験の爽やかさだ。



甘いものを食べない父が喜んで食べるという点においても

バタークリームのチョコレートケーキと同じく家族で気に入っている。



「今日は帰ってから食べるけんね」



母が念を押すようにわたしに耳打ちしてきた。

こないだは我慢できずに三人揃って食べながら帰った経緯がある。



木べらのスプーンでシャクッと掬い

歩きながら甘いアイスを口へ運ぶ背徳感たるや。



ただ、風呂の荷物を抱えながら

加えてまだ小さな妹に気遣いながら

カップアイスをこぼさず食べきるのは至難の業で

正直なところわたしも母も一度で懲りていたのだ。



そんなことは構いなしの妹は

「食べるー!食べるー!」

と駄々を捏ねたが

「あっ!犬さんがいる!」

なぞと気を逸らし、

買ったアイスを風呂かごの隙間に隠して

溶けぬうちに、と帰りを急いだ。




家が近づくと開いた窓から野球中継の音が漏れ聞こえてくる。



「えーっ、今日は野球??」

三和土でサンダルを脱ぎながら母に訊く。

「そうのごたるね(そうみたいね)」

母もすこし、顔を歪めたように見える。



あーあ。

じゃあ今日のアニメは中止かあ。



諦めきれない気持ちで茶の間に入り、

寝そべって野球を観る父に

「SKY買ってきたよ」

と、ぼそと告げる。

聞こえたかどうか、父はテレビに釘付けだ。



ひとつ楽しみがなくなったので

晩御飯ができるまで父のそばでぼおっと野球を見ることにした。





子どもの頃、春から秋にかけて

父のいる夜は野球中継がテレビのほとんどだった。



ぼおっと見るとはなしに見る野球であったが

じつはそれがわたしの野球好きの始まりであり、

のちに大学で野球部のマネージャーを務める礎となる。



野球を観ている父はたいてい

「あーっ、そこは最後カーブやろ!」

「なんで走らんかねっ!」

「こんヘタクソ!」

とテレビに向かって怒鳴ったり。



そうかと思えば

「よおっしっ!よかよか、それでよか」

「うまいっ!」

「よっしゃ!ここぞ!ここやぞ!」

と褒めそやして、檄を飛ばす。



見るとはなし、ではあるが

聞こえてくる父の声は否応なく耳に入ってくる。



その声に強引に引っ張られるようにして

わたしはテレビ画面に映る野球をきちんと見るようになっていった。



そして父がテレビに向かって掛けるその言葉が

あながち間違いでもないことに気づき始める。



その確信を得るため

こっそり父を試してみたこともある。



「お父さん、次は何投げればいいと?」

「ここはもうストレートでよか」



するとギュインと真っ直ぐに投げられたボールは

バシッ、とキャッチャーミットに収まり

打者のバットは見事に空を切る。



「おおーー!」

感嘆の声を挙げると、父がまんざらでもない顔をする。



「監督の今のサインは何?」

「スクイズたい。ここは」



果たして打者は体を投げ出すようにしてボールにバットを当て、

飛び出していた三塁ランナーがヘッドスライディングでホームに還ってきた。



父と監督の采配が一致したことに感心しながら

わたしは野球の奥深さを知り、その面白さに夢中になっていくこととなる。





とまあ、それはさておき、茶の間である。



のちに野球愛を語ることになるとは微塵も思っていないわたしが

夕飯を終え、未だつまらなさそうな空気を全身から醸している。



依然、野球は我がモノ顔でテレビを占領していた。



にっくき野球め。



テーブルに顔を突っ伏してふてくされていると





突如、腹を打つような大きな音がして驚いた。



「花火始まったよー」



母が玄関から呼ぶ声がする。



夏になると毎夜打ちあがる近所の遊園地の花火だ。



毎年始めのうちは楽しみに見るけれど

夏休みも終盤のこの頃には正直面倒に思ってしまう恒例の花火。



野球つまらんけん、たまには花火見るか。



わたしは久しぶりに重い腰を上げた。



「ほおら、キレイかよ~」



母が狭い玄関で体を寄せて場所を空けてくれる。



「た~まや~。か~ぎや~」

とあげる母の声に応えるように花火も威勢を増してくる。



目の前でド、ドーンッ!、と開く花火は視界に溢れるほど大きく

次々と咲く色はにじみなく鮮やかだ。



空が眩しく照らされると、

闇の奥に浮かんでいる雲も見えた。



「キレイねぇ」



母が後ろからわたしの肩に手を置き、

すーいすーい、とさすってくれる。



花火が打ちあがる合間を埋めるように

野球の鳴り物の音も響くので

わたしは負けじと「た~まや~っ!」と叫んでみた。



それは意外にもせいせいして気持ちよく、

母と繰り返し声をあげながら可笑しくってしようがなく

ついには笑いが止まらなくなってしまった。



茶の間で父もテレビのボリュームをさらに上げてくる。



花火は、本番はこれからだとばかりに打ちあがり

わたしは母と笑いながら声をあげ続ける。





つと。



そうだ、アイスがあるやん。

花火終わったらアイス食べよう。



と、ひらめく。



さくり、と爽やかなうす緑色のカップがよぎり

火薬の香まじる夜風がおでこを柔く撫でた。



おでこの中はすでにアイスでいっぱいで

夏が終わろうとしていることに、

わたしはまだ気づいていない。








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「折り合いをつけて生きてますからねぇ」


なにげなく発した自分の言葉がやけに頭に残る一日だった。
珈琲にたらしたクリームのようにぐにゃと広がりぐるぐるとまわる。
いや。
むしろすっくと立つ茶柱か。
いずれにせよ、だ。
しばらく頭から離れなかった。


折り合いをつける。
という言葉に以前は嫌悪感を抱いていた。


大人が使う都合のいい常套句みたいで、

黒にも白にもなれず煮えきらない。

ふわっと言葉を濁して逃げてるだけ。
そんなふうに内心、すこし、軽蔑していた。


わたしの中の正義は潔癖な白!
白がいちばんに決まってるじゃない?
どうして正々堂々白を選ばないの?


あー。
穴があったら入りたい。


内心、のはずが顔に出て
知らず知らず人を傷つけてしまったと思う。
大事な友人もぽとりぽとりと失った。


たちの悪いことに色んなものを失ってもなお、
わたしはわたしの正義が善だと信じて疑わなかった。

そこにそぐわなければ離れていかれることも仕方ないとさえ。



あー。
穴を掘ってでも入りたい。


わたしの真っ白な正義が刃となって人を傷つけたことにようやく気づけたのは
自分が誰かのそれによって深く傷つけられてからだった。



わたしのより、はるかに剛健で鋭利な刃を持つ人。

その白の痛いほどの潔癖さはわたしなど足元にも及ばない。

とてもじゃないが歯が立たなかった。


その人は

「自分に嘘をついてまで、あたしは大人にはなりたくない!」

とはっきり言った。



時には、自分が正しいと思う通りに動かなかったわたしを

数カ月に渡って無視したり。

あるいは悦に入って何時間も説教を垂れたり。



はて、と。
心底困った、と思った。
頼むから大人になってくれ。
あなたの刃は、わたしをえぐるのよ。


そしてその言葉はそっくりそのままわたしに返ってきた。


わたし自身は攻撃型ではないけれど。
だから全然性質がちがうし認めたくはないけれど。
ああ、わたしの持ってる刃と似てる、と気づいてしまった。



この人にも白か黒しか選択肢はないのだ。



しかもグレーやマーブルは逃げた色で

まして白を曲げて別の色を選ぶなんて

人として許せないと信じている。



そして許すに値しない人は攻撃しても良い、と。



なんてこった。
わたしもいつか剣を抜いて振りかざし、

いよいよとなったら誰かを攻撃してしまうのだろうか。



彼女に幾度もざん、ざんと斬られ涙を流しながら

一方でわたしは「どうしたものか」と自分自身に問うていた。



そもそもわたしが正義と信じるものは唯一無二なのだろうか。

そしてそれ以外の考えは全て間違っていると断じてよいのか。



数年かけて出た答えは、否だった。



そんな簡単な答えに気づくのに数年かかるほど

わたしとわたしの真っ白な正義とのつきあいは長いし根深かった。



そうあっさり手を切れるような簡単な間柄ではない。

かと言って、力尽くで引き離してしまえば傷が残り

いずれ何かの拍子に疼いてしまうだろう。



ならば。



否定するとか拒否するとかじゃなく。
隠すでも恥じるでもない。


共存してみてはどうか。


思えば、自分の中にこそいろんな自分がごちゃまぜとなって存在している。



それらとあーだこーだ言いながらも折り合いをつけることができれば

きっとそれぞれに居場所を作ることができるのではないだろうか。



その上で。

あなたはここね、きみはここ。

だいじょうぶ、居てくれていいのよ。
そのかわり。



あなたの場所に分別をもって居なさいね。


そんなイメージで少しづつ心を整えていくようになった。



さらには、他の誰かに対しても。

いろんな色がある方がいい、と今は曇りなく言える。



件の彼女のことはまだ怖いけれど、

その怖がる心もまたれっきとしたわたしの中の住人なのだ。

ちいさくも無限のわたしの心の中で

他のものたちと折り合って生きていくだろう。



なんにせよ、無くなることはないのだから。



「折り合いをつけて生きてますからねぇ」
と自分が発した言葉。
なぜわたしの頭にしばらく残っていたのか不思議だった。


長らく嫌悪感を抱いていた言葉が

意外にもとてもやさしく響いて

まだそれに慣れないわたしは一瞬ひるんで

しばし立ち尽くしたのかもしれない。



そのことに気づけた今、言えるのは。



折り合いをつけることは

わたしにとっては逃げることでも濁すことでもないということ。



それは心を整然と手当てするに必要なことだった。



どれどれ、と気まぐれに覗いてみると。
あの真っ白な正義は、まっしろな正義となって

わたしの中のひとつの場所に、

すこし恥ずかしそうに肩をすぼめて座っている。



どだい正義なぞ、そのくらいでちょうどいいのだ。










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ママの睫毛は

しっとりとながく





笑うとさがる目尻に

ふわり、かぶさり

仄かな音をたてる





やわくとろけるその音は

きっと

あたしにしか聞こえていない





濡れたひかりがたゆたう

窓の大きな部屋





ママがあたしを抱きしめて

くーん、と

おでこに鼻を押しつけてくる





くすぐったくて

窮屈で

あたしがとっさに逃げだすと





こんどは

寝そべったあたしの足の裏を

むにむにと、

たぶんいっそう目尻をさげて

さわりはじめた





みあげた窓

はりつく雨粒が

ぱた、ぱたと滑りながら落ちてくる





おもわず手を伸ばし

右、左と追いかける





すると

「隙あり!」

と、脇をくすぐられ

あたしはきゃあ、とのけぞった





それにしてもよく降る雨、と

ママのため息が

抱きかかえられたあたしの耳にふれる





そりゃあ

あたしだって

ひだまりで日向ぼっこが

いいに決まってるけど





雨がふると

ママが家にいてくれるから





こんな日も

悪くない、と

じつは思っている





もちろん

ママには内緒のこと





だって





あたしの好きより

ママの好きが大きい方が

いっとう、いいでしょ?





するり、

腕から脱け出して




ごろん、と

お腹を見せると




ママから

やわくとろける音がした













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あんしんする場所は影のなかだった

ひんやりしづかな影のなか



そこに入れば

わたしはわたしの影ごと消えて

世界からきれいに隠れることができた



小学四年の一学期



その女の子はスポーツ万能で秀才

くわえて誰よりも我が強く

クラス中の女子は皆

彼女の言いなりとなっていた



ある日の昼休み

円になりグーパーで

ドッヂボールの組み分けをした時のこと



彼女は武さんという女の子を除いた

すべての女子にグーを出すよう

皆の背中を

「グー」でトントンと叩いて回った



その仕草はこっそりというより

むしろあからさまで

わらいながら近づいてきた彼女が

わたしの背中を叩いたその瞬間

ぞわと

背筋に虫酸が走った



むしず、という言葉は知らなかったけれど

まさに真っ黒いゲジゲジが

何匹も連なって這い上ってくるような

そんな気色の悪さがあった



武さんは

一緒に塾に通っていたわたしの大事な友達で

件の彼女よりも体格がよく

誰からも好かれる女の子だった



そして武さんにも

彼女が良からぬことを謀って

ぐるりと歩いて回っていることは

はっきりと伝わっていたと思う



それでも

円の真向かいで泰然と立ち

逃げるでも怯えるでもなく

ただその時をじっと待っているように見えた



「グーとーパーでわかれましょっ!」



わたしは



わたしは

グーを、出してしまった



そして見事に

武さんだけがパーだった



本来ならグーパーは

半々になるまで続けなければならない



なのに

「武さん大きかけん、

一人でもよかろ?」



すぐに

してやったりの顔で彼女がそう声をあげた



巻き戻せない一瞬への

後悔と恐怖と怒りで

頭がぎちぎちに膨れあがり

わたしはものすごい形相をしていたのだろう



武さんが何かを察知し

こちらに必死に視線を送り

首を小刻みに横に振っている



手が汗で濡れてきた

心臓がいつにない速さで強く打ってくる

背中のゲジゲジはもはや体中に張りついて

吐き気をもよおすほどだ



「おかしいやん!」



気づいた時には

乾いた口から声をあげていた



「半々にせんと、おかしいやん!」



夏を呼ぶ日差しだった

運動場の白っぽい土からの照りかえしで

じりじりと灼けそうだ



「はあ?」



彼女が食って掛かる勢いで

わたしを睨んだ



その時



「平気やけーん」



のんびりとした

武さんの声がした



まるで

おかしなことは

ひとつも起こっていないかのように

いつもの、落ち着いた武さんの声



「平気やけん、これでやろう?」

「一人の方がやりやすいけん」



わたしを睨んだ彼女は

一瞬で声の方に向き直り

「じゃあ、やろう」

と満足げにわらった



広いコートの片方に

たった一人の武さんと

もう一方に

その他大勢の女子たち



けれど

彼女の思惑は外れ

試合は途中まで

武さん優勢で進んだ



ボールをお腹でがふと受け止め

団子になって逃げ惑う女子たちを

バッタバッタと仕留めていく



倒された子らが外野へ移動すると

そこでボールを回されてしまい

最後には劣勢になったけれど

それでも大健闘の戦いぶりだった



わたしはその雄姿に心うちで快哉をあげ

母に興奮気味に話したことも覚えている



武さん、かっこいいよ



自分が「おかしい」と

異を唱えたことは

なぜかすっかり忘れ

その夜は興奮冷めやらぬ呈で眠りに落ちた



明けて翌日から

わたしは武さんに変わり

クラスで

無視の対象となった





そして、昼休み

影のなかにいる



外遊びを促される時代だった



あてもなく出た外は

素っ気なく

無遠慮な光と声に溢れていて

ひとりで居られる場所はなさそうだ



ふと、

踏み入れた校舎の影



頭がひやと冷める

耳がきんと静まる



まとわりついていた声が

すとんすとんと

影の手前で落ちて

わたしのところまでは届いてこない



あんしんできる場所を見つけた気がした



そうして一週間か、二週間か

わたしは昼休みの度に

影のなかにいた



その辺の小石を集め

その中から色のつくものを発見し

ごつごつのアスファルトに

がたがたの絵を描く



ふかふかの苔に葉っぱをのせて

小枝で囲んで部屋をつくる



影は

さみしいとか

はずかしいとか

そういった感情も

ぜんぶすっぽりと、隠してくれた



その後

わたしへの無視は

突然終わりを迎え

つぎは他の誰かを転々とし

小学五年に上がる時

その彼女は遠くの町に転校していった



平和な日々となり

笑って話せるようになった頃

塾へと急ぐ自転車を漕ぎながら

武さんとあの日の話になった



「あの時の武さん、かっこよかったよ~」

と言うと



「あの時ちーちゃんがわたしを庇って

いじめられるんじゃないかってハラハラしたよ」

と、武さんが言うので



「え?わたし『おかしいやん』て言って

次の日から無視されたよね?」

と、訊き返した



すると「え??」と言った武さんは

いまいちピンと来ていない

といったふうの横顔になり

そのまま黙ってしまった



その反応にうろたえたわたしは

まだ去年のことなのに・・・

と、その記憶の違いに

漠然とした怖さを覚え



武さんが自然と話題を変えてしまうと

再びその話に戻してまで

ことの流れを追究することはできなかった



以来

誰かに話して

また辻褄が合わず

気まずい空気になるのが怖くて

ずっとさわれない箱に仕舞ってきた



それがここ数日

ある絵をきっかけに

「影」を思う日々を過ごしていて

小学生の自分が仕舞い込んだその箱を

記憶の奥底で見つけた



すっかり古びていて埃を被り

ふれるのに躊躇したけれど



大人になり

思いきってのぞき見たそれは

つまらぬ常識で一蹴するには

あまりに

うぶで美しく



そのまま

あの頃に感じたまま

そっと

蓋をとじることにした





はた、と



この頼りなげな箱に

もう見失わぬよう

名をつけてやろうと

思い立つ



ちいさな子供には説明のつかぬ

怪しげで、

ドキドキと胸が鳴るような



“もしかしたら

あのかげのなかで

わたしはほんとうにかくされていて

ちがうせかいにいっていたのかも”



自転車で風をうけながら

ひとり空想を膨らませたわたしが

小躍りするような名を



突拍子もない

けれど

この世界のすきまで

ややもすると起こるかもしれない



摩訶不思議なそれを



いっそ

”ファンタジー”と名づけてしまえ










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いつの春だったか




ずいぶんと前に、もう

ゆびを折ることもしなくなった





それでも

そんなこちらの意地など構いなく

けさも窓のむこうは白々と霞み

音もなく

あまい雨が降っている





あれは出会った頃





あなたが

首をほんのすこしだけ傾げて

ん?

と、聞き返すそのしぐさを





わたしはいたく気に入って





会話はわざと囁くほどに

声のちいさな女の子の

ふりをしていた





あるいは

いつかの夕暮れ時





珈琲を片手に

本を持つその指が

ほっそりと長く

まるでやわらかな栞のようで





すでに見慣れたはずのその指を

飽きもせず

ひとしきり見つめたものだった





ああ

ほら、あんのじょう

花のにおいを纏った雨が

そんな欠片のような

さもない記憶ばかりを連れてくる





しかたなく

わたしはふっと観念し

白い空に

声をひそめて話しかける





そちらでは

いかがお過ごし?





また





つぎのあなたとわたしで

 きっと

 逢いましょうね









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